縦横夢走 2007年 沖縄 編
歴史の島 沖縄 (2007/08/05-08/09) ・08/05 始まりは船から
・08/06 市内探検
・08/07 歴史を伝えるということ
・08/08 寄り道
・08/09 「事実」ではなくその「意味」を
08/05 晴れ 始まりは船から 洋上/大阪-那覇フェリー/***km
今は沖縄へ向かう洋上・・・昨夜大阪南港を出港し、31時間の航海を経て、明日の朝8時半にオレを乗せたフェリーは那覇に到着する。
一昨年から「縦横夢走」を始め、関西・北海道・北東日本一周を経て、次は南東日本を巡ろうと思っていたのだが、今回の旅の舞台に選んだのは、美ら島「沖縄」。何故沖縄なのかというと、大学時代からの友人が那覇に住んでおり、彼を頼って旅をすることにしたというわけ。
フェリーの中でこの記事を書いているが、この沖縄行きのフェリー・・・以前北海道行きで乗った新日本海フェリーとは随分異なる点がある。
今はハイシーズンだというのに客はまばら。船は名古屋から出港しており、幾らかのライダーも居るには居るが北海道への船と比べると活気は少ない。雑魚寝のタコ部屋は無く、2等でもドミトリー形式のベッド室。6つあるベッドのうち、客は3人ということからも、その閑散さがわかるだろう。
フェリーにはレストラン・バーだけにあらず、ジャグジーやサウナ、果てはダイビングプールまであるが、その施設の殆どは閉鎖されており使うことはできない。バブル時代に多くの人であふれ、使われていたであろうそれらの施設が、今後使われることはなさそうだ。そりゃこの1分1秒を争うこのご時世に、31時間もかけて沖縄へ向かう人間なんて少ないだろうし、無理も無い。
そんな感じなので、船内はとにかく「暇」・・・この1文字に尽きる。
今回の沖縄での滞在期間は22日と、ある程度あるので、多くの観光客が訪れる「沖縄」とは違った視点で旅をしていきたいと思う。
フェリーから降りた瞬間がオレの旅が始まる瞬間。美ら島沖縄では、一体どんなことが待ち受けているのだろうか?どんなものに出会えるのだろうか?そして、どんな人に出会えるのだろうか?今この瞬間のドキドキワクワク感を存分に楽しんでおこうと思う。
08/06 晴れ/曇り 市内探検 沖縄県那覇市/友人の家/61.8km
定刻より30分遅れでフェリーは那覇新港に入港した。大阪と同程度の暑さを予想していたが、むせ返るような暑さにどっと船旅の疲れが出てきた・・・31時間半の船内生活のうち、暇に任せて25時間は寝たように思うが、外洋を進む故、内海のフェリーと比べると幾分揺れる。その為、意外に疲れが溜まっていたのかもしれない。
そんな暑さの中、沖縄の地に立ったのは9時を少し回った頃だった。経費節減の為、船内では持ち込んだカップ麺とお菓子しか食べておらず、腹の減りもピークだったので近くに見つけたコンビニでおにぎりを食べてその場をしのぐ。
今日は大学時代の友人の家に泊まることになっているが、合流するのは彼の仕事が終わった後。つまりその時間までは自由ということになるが、多い荷物のまま移動するのも面倒だったのでコインロッカーを探して荷物を預けることにした。
コインロッカーがある場所といえば、まずは駅。那覇には沖縄唯一の鉄道というかモノレールが運行しており、友人の家が首里城の近くだというので、「首里駅」目指す。そこに荷物が置けると都合が良い。首里城は超有名観光地だけに案内看板も多く、しかもモノレールは頭上を走っているということもあり、全く迷うことなく駅に到着した。
が、ここで問題発覚。キオスクの人にコインロッカーのありかを聞いたところ、なんと駅の中らしい。入場券を買って荷物を預けるのもしゃくなので、ここは諦めて別の場所を探すことに・・・駅に無ければ他に何処にあるか?最有力候補である駅がアウトとなれば、候補は非常に少なくなる。ちょっとショックだったが、怒ってもしょうがないので、この近辺でコインロッカーのありそうな場所を考える。世界遺産にもなっている「首里城」は、観光客の受け入れ態勢もしっかりしていると思うので、ここにはどうか?ということでお次は首里城へ。
当然駅から近いのですぐに到着。 駐車場入口の警備員さんに聞くと、見事にビンゴ。夜9時まで預けられるロッカーがあり、そこに荷物を入れて一段落。それ程苦労せず見つけられたし、値段も100円とリーズナブルだったのがさらにナイス。荷物も少なくなったので、そのまま首里城を観光しても良かったのだが、おにぎり1個ではお腹も持たないのでまずは市内観光に乗り出すことにした。
最初に行ったのは「国際通り」。ここは観光客を相手にした商店が多く建ち並ぶ通りで、那覇でも最も活気がある通りの1つ。その通りからはいくつかの商店街が伸びているので、色々と発見もありそうだ。
通りから少し入ったところにカブを止め、後は徒歩・・・大阪よりも明らかに太陽の高さが上で、日差しがとにかく厳しい。国際通りには土産物屋が多いが、あまり楽しそうもなかったし、それよりも日陰に逃れたいという思いがあって、適当に商店街に入ってみた。商店街には色々店があるが、中には市場もある。牧志公設市場もその一つで、ここは有名な観光スポットにもなっている。
市場の中には様々なものが並べられ、食材をチョイスし2階へ持っていくと、それを料理してくれるという釧路の和商市場と似たようなシステムになっている。
食材は多種多様で、まず最初に目に付いたのが右の写真の豚・・・「鳴き声意外は全て食べる」と言われる沖縄ならでは。こんな風に御めかしされているが、これも立派な食材というのだからちょっと笑える。
他には魚介類も多く、沖縄以外では見かけないような南国特有の派手な色の魚もたくさん見られる。しかも聞いたことが無い名前がついているもんだから、何だかよくわからない・・・珍しい魚は外国でも色々と見てきたが、ここ沖縄では「ホントにこれ食べるの?」と言いたくなるような容姿のものも多い。豚の画像にマウスカーソルを持っていってみよう。こんな魚がたくさん売られているのは正直驚き。
この他には、やたらとデカいサザエの仲間や、ヤシガニなど珍しいものがたくさんあった。
オレが昼食に選んだのは、沖縄で「グルクン」と呼ばれる「タカサゴ」という名の魚。グルクンのから揚げは沖縄名物なので、まずはそこからチョイス。他に刺身の盛り合わせとあら汁をセットにして調理料込みで1500円。ちょっと高めの食事になったが、そのボリュームは相当な量。普通の人なら2人で食べてちょうどいい位。もちろんオレは一人で完食したが、正直結構キツかった。
満腹になったので、腹ごなしも兼ねて更なる探検へ。商店街をどんどん奥に進んでいくと、たくさん枝分かれしており、そこはまるで迷路の様。観光客はあまりここまで入ってくることは無く、牧志公設市場までとは雰囲気が違っている。さらにどんどん奥へ進むと・・・なにやら怪しげな市場を発見!
その名も「農連中央市場」。名前はしっかりしてそうだが、その雰囲気は明らかに普通とは言いがたい。中は暗く、市場には必須とも言える「活気」が全く感じられないのだ(笑)
ここまで来たからには、後には引けず中へ入ってみることに・・・市場の中では、やる気無さそうにタバコをふかしながら店番をしているおばさんが居たり、建物自体がちょっと傾いていたりの不思議な空間だった。しかし、「那覇で一番朝早くからやっている市場」との看板もあったので訪れた時間帯が悪かっただけかもしれない。
そんなことを考えながら、市場を出たところで最後に思わずふき出してしまった。右の画像のロールオーバーイメージ(市場の画像にマウスカーソルを持っていってみよう)を見てみよう。思わず「なんじゃそりゃ~」と突っ込みを入れたくなってしまった自動販売機が・・・
「お茶色々出ます」「?甘い物色々出ます」「コーヒー?色々出ます」
甘い物って一体・・・しかも値段は50円。お茶も50円のようだが、その隣にある烏龍茶は100円。コーヒーも同様で色々は60円なのに、隣のコーヒーはいずれも100円。画像の中には写っていないが、ペプシNEXは100円なのにペプシは60円という有様。突っ込み所があまりに多すぎて絶句してしまった(笑)
その後は再びカブに跨り、市内をあても無くウロウロと走ってみた。那覇空港の南にある「瀬長島」というところから離陸していくジャンボジェットや戦闘機を眺めたりして、7時頃にまた首里城に戻ってきた。喫茶店でシークァーサージュースを飲んで一息ついたところで友人と無事合流。合流後は、荷物を友人の家にの運び、近くのオススメだという居酒屋で夕食。久しぶりの友人との楽しい会話を楽しみながら、沖縄料理に舌鼓をうって(ビタローのニンニクバター焼きというのが絶品だった!)無事に1日目が終わった。
今日はこの暑さの中、朝から一日中動き回っていたので結構疲れてしまった。明日は台風が近くに来ているということもあるので、ちょっとのんびり過ごして体力を回復させようと思う。
08/07 くもり/雨 歴史を伝えるということ 沖縄県那覇市/友人の家/25.9km
沖縄ほど、他国にその運命を翻弄された国も少ないかもしれない・・・
今日は午前中に洗濯やその他の雑用を済ませ、昼から行動を開始。まずは首里城とその近辺を目指す。道中、沖縄そばでお腹を満たせた。
昨日時間を潰したビジターセンターからスタートし、案内コース通りに巡る。まずは写真の「守礼門」。平日であるがハイシーズンなので人の姿も多い。日本では見られない石造りの城だが、やたらとたくさんの門があり、通路は曲がりくねっている。これは首里城自体それほど大きくないのだが、その狭い敷地を出来るだけ大きく見せるための工夫のようだ。というのも、琉球王国はもともと小さな国であり、中国からの使節団を受け入れる時に使われた城なので、出来るだけ立派に見えるように作られたのではないかと思う。日本と中国の建築様式を合わせたような建物もあり、双方の文化から影響を受けた琉球王国の姿が感じられる。内部の様子は非常に豪華で、玉座の前には龍頭と呼ばれる龍のトーテムポールのようなものがあり、他の建物にも「龍」があしらわれたものが多く見受けられる。(ロールオーバーイメージ)
城内には当時の役人の服装のコスプレをした係員が配置されており、聞くところによると冠の色で位分けがされている。一番上の位が紫で、約10段階程に位わけされているということからも、日本の影響を多分に受けているということがわかる。
しかし、これだけの立派な建造物が、太平洋戦争で“全て”破壊された理由については、どこの展示を見ても書いていない。
京都や奈良などの有名な寺院や神社など、文化的価値が非常に高い建造物は、通常爆撃対象から外されるが、首里城にはそうできない理由があった。その真実はこれだ・・・
写真からは何のことか分からないかもしれないが、実はこれ、首里城内の“園比屋武御嶽石門”のほぼ真下にある“地下壕への入口”である。
熾烈を極めた沖縄戦。防衛に当たった帝国陸軍第32軍司令部が置かれたのが、この壕である。近くにいた作業員さんの話では、地下壕は崩落もあって現在は入口を閉鎖されているが、ここから「守礼門」の真下を通り、地下駐車場まで約150mものびているらしい。その為、文化的にも貴重な建造物であった首里城はアメリカ軍の爆撃目標とされ、完全に破壊されてしまったのだ。オレはこの真実は多くの人に伝えるべきことだと思うが、どういうわけか、これらに関する記述は全く見られなかった。ウチナー(沖縄人)では有名らしいが、楽しそうに「守礼門」を通り抜けていくナイチャー(内地人)にこそ、この事実を伝えていくべきだとオレは思う。
首里城見学の後は、その近辺を徒歩で散策。まずは「金城町石畳道」へ行ってみたが、なかなか凄い発見があった。石畳に落ちた雨水は地面に吸収されるが、その地下に瓦礫や砂利を敷き詰めてあり雨水が濾過される。濾過された水はスーフカと呼ばれる地下水路を通り、村の共同井戸に流れ込む仕組みになっている。川が少ない沖縄では水は非常に貴重であり、水にかける執念というのに圧倒されてしまった。
石畳を楽しんだ後は世界遺産になっているもののマイナーな王家の墓である玉陵(たまうどぅん)を見学し、お次はカブで「旧海軍司令部壕」へ向かう。
ここは小高い丘が入口になっており、戦時下の様子が展示されているミュージアムと、当時の姿をそのままに残す地下壕がある。展示物にも心を打たれるものがあるが、それ以上に地下壕の迫力には正直言葉を失った。
入口は写真のような小さな階段で、105段、30mほど下ると通路が縦横に張り巡らされた壕内へと続く。
壕内は信号室・作戦室・幕僚室・暗号室・医療室・発電室・下士官兵員室・司令官室とその通路からなり、幕僚室では幕僚が手榴弾で自決した時の破片の後がそのまま残されていたりで、非常に重苦しい雰囲気だった。ロールオーバーイメージは司令官室で大田實海軍少将が自決した場所であり、画像には写っていないが『大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり』という歌が鮮やかに残されていた。この旧海軍司令部壕では、大田少将が海軍次官に充てた電報が何箇所にも展示されており、その電文には非常に心打たれるものがあった・・・
その内容は沖縄での戦闘が熾烈を極めた戦いであったということ、沖縄県民はご奉公するのだという一念を胸に抱きながら報われることなく戦闘の最期を迎えたということ、このように戦った沖縄県民に後世特別のご配慮をしてくださいますようにということだった。
大田少将が自決する直前に宛てたこの電文に込めた思いは、今の沖縄県民の生活に表れているだろうか?・・・そう考えると胸が痛くなった。
08/08 晴れ/雨 寄り道 沖縄県那覇市/友人の家/126.9km
ここ数日の天気はかなり微妙。せっかく沖縄まで来たのにスカッと晴れる事が無い。晴れ間が差しているにも関わらず突然雨が降ったりするので手が抜けない。めちゃめちゃ天気が変わりやすかったヨーロッパでのことを思い出したが、気温は一定しているのでこちらのほうが幾分マシな印象ではあるが、ここ毎日風が強いのは困ったところ。
さて、今日は那覇から少し足を伸ばし、北のほうへ向かってみた。国道58号で北上し、米軍の嘉手納飛行場が見渡せるという道の駅「かでな」へ。ここには、かの有名な「安保の見える丘」がある。詳しく言うと、安保の見える丘よりも、道の駅の4階の方が良く見える為、今ではこちらがメインになっているようだ。
嘉手納飛行場は広大な敷地で、遠めに何機もの戦闘機を見ることが出来た。ここは実際に稼動している基地なので、戦闘機が離陸していったり着陸していったりする姿を見ることが出来るらしい。それを狙ってか、もの凄い望遠レンズがついたカメラを持って来ている、いわゆる「軍事マニア」の姿も多い。残念ながらオレのデジカメではズームが足りずサイトに載せる程の写真は撮れなかったので、御容赦して頂きたい。
その後再び北上し、読谷村(よみたんそん)に入ったところで沿岸部へ出てみた。ちょっと道を外れるだけでこんな風景が眺めるというのは流石は沖縄。辺り一面サトウキビ畑。
居候している先の友人の話では、沖縄のサトウキビは9月に植え付けて翌年の12月に収穫する方法と、3月に植えてその年の12月に収穫する方法。又、サトウキビはイネ科の植物なので、途中で切ってもまた生えてくる性質があるので、ある程度伸びたところで切って、新たに芽が出てくるまでほったらかしにする方法があるらしい。1番目の方法の場合、今は8月なので、2年に1回休ませている畑があることになる。何も栽培していない畑がちらほら見られたのはそういうことなのだろう。
この近くでカブを止めてふらっと海岸まで出てみたが、水が凄く綺麗。しかし、沖縄では「本島の海は大したこと無い」とよく聞く。離島の海は本当に美しいらしいので、それを拝む日が楽しみだ。
こんな気持ちいい道を走りながら、お次は残波岬へ。その途中で「完熟ドラゴンフルーツ」なる看板を見かけたので立ち寄ってみた。ドラゴンフルーツは本州では滅多に見かけないが、ここ沖縄では一般的で、どこにでも売っている。実が「ドラゴンの眼」に似ているからドラゴンフルーツと言う名がついたらしいが、不思議な話だ(笑)
画像からもわかると思うが、ドラゴンフルーツはサボテンの一種。冷やかしで見学していたら、店のオバァ(沖縄ではお婆さんのことをこう呼ぶ)が切って食べさせてくれた。薄い皮の内側には、赤い実と共に細かい種(食べられる)が入っている。実の作りや食感・味ともにキウイに非常に似ている。オバァが言うには、ドラゴンフルーツが流行したときに、未熟な果実を売った業者が居たそうで、あまり美味しくないというイメージが定着してしまったらしい。しかし、完熟までまで置いておくとしっかり甘味が出て、ここ最近では大人気になったらしい。このドラゴンフルーツ園(?)でも注文は結構多いんだとか。オレは試食で1つ頂いただけで買わなかったけど、なかなか美味しかった。
そのまま北上し、次は沖縄の景勝地と言えば、恐らく1番にその名が挙がる「万座毛」へ行ってみた。土産物屋が軒を連ねる一大観光地という感じだったが、琉球石灰岩の絶壁は有名な景勝地だというイメージに負けない迫力があった。その後は県道104号で東側に移動し、「じゃがめん」が食べられるという「未来ぎのざ」という特産品の販売所へ行ってみた。
「じゃがめん」はじゃがいもを練りこんだ沖縄そばで、横の食堂で食べることも出来る。オレが注文したのは、そのじゃがめんの上に、薄切りと千切りのじゃがいもを揚げたものが乗ったもの。麺は普通の沖縄そばの麺よりも若干コシが強いかな・・・という程度で味にわかるような違いは無かったが、上に乗っているじゃがいもとのバランスは絶妙。ちなみにオレは大のじゃがいも好きだったりする。
そうこうしていると、そろそろいい時間になってきたので南下開始。あまりに暑いので「金武大川」という湧水が出ている場所に寄って喉を潤し、ついでに顔も洗ってから那覇へ戻ることにした。
08/09 曇り|晴れ 「事実」ではなくその「意味」を 沖縄県那覇市/友人の家/75.2km
さぁ出発だ!という直前で突然雨が降り出し出鼻をくじかれた。部屋で何処へ行こうかなぁと思案していると雨が止んだので、その期を逃さず出発した。天気予報では一日中弱い雨が降るということだったが、今日の天気は大ハズレ。雨はほとんど降らず、風は強いものの天気は良かった。おかげで腕がヒリヒリしている。
今日は本島の南を回ったが、「定番スポット」が多い。もともと定番スポットはあまり好きでは無いが、沖縄に来た以上、いくら定番とはいえ、絶対に外せない場所もある。
まずは琉球王国時代に最大の聖地だったという「斎場御嶽(せーふぁうたき)」へ。御嶽とは聖地のことで、斎場御嶽は沖縄における本山のようなものらしい。ここは世界遺産だけあって必要以上の施設が整い、観光客も多い。ちなみに、現在でも多くの人々から崇拝されているようで、御願(うがん:お祈りのこと)している人の姿も見られた。昔は国王の関係者以外は途中から立入禁止になっていた程の場所らしい。
奥へと進んでいくと視界に入ったのが、大きな岩が作り出した3角形の穴。恐らく自然の産物だろうが、その穴の先に拝所がある。その拝所の岩の上には沖の久高島(くだかじま)が望めるようになっている(ロールオーバーイメージ)。久高島は琉球始祖の神アマミキヨが最初に上陸したとされる島で、当時はこの島に向かって祈りを奉げたようだ。
斎場御嶽を後にして国道331号を南西へ進むと「カンチャ大川」という小さな看板があったので寄り道。大川とは湧水が出ている場所を表しているようで、ここにも綺麗な水が湧き出していた。水の中にはメダカのような小さな魚がたくさんいるが、よく目を凝らすと尾びれが長いものもいる。これはメダカではなくグッピーで、流石南国と言ったところだろうか。あまりに暑いので、幾らか涼を取ってから先へ進む。
途中喉が渇いたので見つけた自動販売機の側にカブを止めると、自然と休憩中のチャリダーと話をすることになった。チャリダーの彼はアイルランド人で、『日本語が全く分からないから色々苦労する』とのこと。
看板の多くはローマ字が併記されているが、読み方が何となくわかっても、意味は全く推測出来ないから、本当に大変なのだろう。結構長く話し込んで、いよいよ暑さに絶えられなくなってきたので、そこから近くにあった「『垣花樋川』へ涼みに行く」とチャリダーの彼に告げ出発。「垣花樋川」は水量こそそれ程多くないが、現地の子ども達が、何人も水に漬かって魚すくいや水遊びをしていたので、沖縄南部では数少ない涼を取れる場所なのかもしれない。子ども達に「何が取れるの?」と問い掛けると、得意げにビニール袋に入れた小さな魚やおたまじゃくしを見せてくれた。オレも少し涼もうと日焼けして熱くなった腕を冷やしていると、さっきのチャリダーがやってきた(笑)
この暑さの中では“涼みたい”と思うのは、万国共通のことなんだろう。次は事前情報で調べていた「アブチラガマ(糸数壕)」へ。わかりにくい場所にあり、看板もほとんど無いのでカンで目指したが、苦労せず発見できたので助かった。沖縄へ来てから「壕」をよく見るが、見学後に思ったことだが、ここはその中でも一番“重い”場所かもしれない。
簡単に説明しておくと、ここは沖縄戦の当初は糸数集落の避難壕だったのだが、戦線が南下するつれ日本軍の陣地壕や倉庫、陸軍病院の分室になった場所である。軍医・看護婦・ひめゆり学徒隊が配属され、全長約270mの壕内は600人以上の負傷兵で埋め尽くされた・・・南部撤退命令の後は糸数の住民と自力で動けず放置された負傷兵達が、ここで米軍の火炎放射や生き埋め攻撃に耐えたという話である。南部観光総合案内センターが受け付けで、センターには写真や新聞記事以外に、壕の中で生き延びた負傷兵の方本人の体験記が書かれた冊子があり見入ってしまった。そんな感じでアブチラガマについて勉強した後は、実際に壕に入るってみる・・・ここの壕は、入口の階段と所々に手すりを設置した以外は当時のままで保存されている。ということは全く明かりがないわけで、懐中電灯は100円でレンタルとなっている。オレは自前の懐中電灯を持っていたので借りなかったが、全長270mに及ぶ真っ暗な洞窟に小さな明かり1つで入っていくのである。それ程メジャーな場所でもないので、当然回りに人は一切無し。しかもたった1人で入るのはちょっと勇気がいるかもしれない。ちなみに、オレの前に入った2人組の人は、恐ろしくてちょっとだけ進んですぐに引き返して出てきたそうだ。
入口の階段の前に立つと、中から非常に涼しい風が吹いている。天然の洞窟なので涼しいのは当り前だが、当時の様子を想像すると、両手を上げて喜ぶことも出来ない。壕内は本当に真っ暗で、まさに“真闇”といった言葉が相応しい。所々に看板が設置されており、順路と場所の説明がある。脳傷患者・破傷風患者・ベッド・病棟・井戸・死体安置所など・・・暗いところはそれ程苦手ではないが、ここは海軍壕以上の迫力があった。途中で後ろを振り返ってみたが、当然ながら真っ暗で、自分が歩いてきたところは何も見えない。
外へ出てくるとむせ返るような暑さでウンザリしたが、死臭が漂い、負傷兵のうめき声が響いていたこの壕中で何ヶ月も過ごした方の体験記を思い出すと、少しホッとした気分になった。お次は「平和記念公園」へ。ここは有名スポットなのでご存知の方も多いと思うが、各県ごとに慰霊碑が設置されている場所がある。その奥には展望台があり、その横の階段を降りると、小さな壕の入口が現れる。今では中に入ることは出来ないが、牛島中将が最期に自決した場所がひっそりと残されている。
公園は広大で「平和の礎」と呼ばれる大量の石碑があり、その両面に沖縄戦での戦没者の名前が刻まれている。画像はそのうちのほんの一部で、その数24万以上・・・日本人だけでなく、アメリカ人やその他の外国人の名も刻まれており、名前が分からず未だ刻まれていない人の為に、何も刻まれていない石碑もあった。
おびただしい数の戦没者名。この石碑がオレ達に伝えたいのは、沖縄戦でこれだけたくさんの命が失われたという「事実」ではでなく、その「意味」ではないだろうか?「戦争反対」と言うことは容易いが、多くの人はその本当の「意味」を考えているか?と思うと、オレには疑問が残る・・・公園の後はもはや有名観光地になってしまった感が否めない「ひめゆりの塔」へ。ひめゆりの塔の詳細は多くの人が知っていることなので、ここではわざわざ書かないが、塔の前にポッカリと開く第三外科壕を覗き込むと、その悲惨さも想像するに難くない。ここを訪れる人の多くは、この塔と第三外科壕跡、それから資料館を見学して終わりだと思うが、実はこの近くには「第一外科壕跡」が残されている。駐車場の警備員さんに教えてもらったのだが、駐車場に車を置いたままそちらに足を伸ばしてみる価値はあると思う。
ひめゆりの塔から西に100m程進み、南へ曲がって狭い路地に入る。曲がり角には小さな石柱に「第一外科壕跡」と書かれているが、車で走ると確実に見過ごす位の大きさである。そのまま道なりに100m程進むと左手に壕の入口があるが、狭い道路脇なので駐車スペースは無い。この壕も第三外科壕と同じ様に使われたみたいだが、入口のところまで歩いて行けるので、こちらの方が壕の空気を肌で感じられる。
興味のある人は是非訪れてもらえたらと思う。